2019年


ーーー12/3−−− メロディーの記憶


 
忘れられず、心の隅に残っているメロディーというものがある。わが人生を振り返ると、いろいろな年代に、さまざまなメロディーの記憶がある。その中で、ずうっと気掛かりだったものがある。メロディーは思い出すのだが、曲名が分からなかったのである。その記憶は、小学校低学年のものであった。

 学校から戻ると、家の中で工作をして遊ぶのが、その頃の日課だった。特に粘土細工が好きだった。木造の社宅の薄暗い和室の片隅で、座卓に向かって粘土遊びに興じた。奥の部屋では姉がピアノを弾いていて、その音が聞こえてきた。いろいろな曲を弾いていたのだろうが、とりわけ印象深く思い出に刻まれたメロディーがある。そんなに小さかった頃の記憶なのに、そのメロディーは、その場の情景とともに、いつも明瞭に思い出される。思い出すたびに、なんだか切ないような、甘酸っぱいような、不思議な感情が沸き起こる。

 大人になってからも、しばしばそのメロディーは頭をよぎった。これほど強く印象に残っている曲の名を知りたいと思った。しかし、頭の中にあるメロディーを頼りに曲名を探し出すというのは、不可能だった。現代はパソコンを使って何でも検索できる時代だが、言葉に置き換えられないものは検索のしようがない。曲名を知りたいという願いは、何十年もかなわなかった。

 50台の半ばだったと思うから、原体験から半世紀ちかく経った頃、偶然そのメロディーを耳にした。ラジオの音楽番組で、その曲が流れたのである。私は鳥肌が立つような気がした。演奏が終わって曲名がアナウンスされるのを、鉛筆片手にじっと待った。それはメンデルスゾーンのピアノ曲「無言歌集」であった。

 この曲集は、何曲かの小品で構成されている。そのうちのどれが思い出のメロディーの曲なのか。それはパソコンを使って簡単に調べられた。小品のタイトルを入れて動画検索をし、順番に聴いて探せば良いのである。結果は、「ベニスの舟歌」という曲だった。曲名が分かったので、あらためて聴いてみた。そうそう、これこれ、という感じだった。穏やかな哀調をおびたメロディーである。幼少期にこのような曲と出会ったことが、その後の私の成長に、何がしかの影響を与たのであろうか。

 さて、もう一つ、姉のピアノ演奏の中で記憶に残っているメロディーがある。それは、当時から曲名を聞かされていた、シューベルトの即興曲である。小学校高学年だった姉は、その曲を「飛び込み自殺のような曲」と評していた。




ーーー12/10−−− 展示会を終えて


 
伊那市の「かんてんぱぱホールで」、異分野の作家たちと合同展を行った。2016年に続いて二度目である。前回は陶芸、織物の作家と一緒にやったが、今回はそれに竹工芸の作家が加わり、4者で行った。

 このホールがある「かんてんぱぱガーデン」は、食品会社の事業所に併設されており、ショップ、レストラン、喫茶室、ギャラリーなどが揃っている。敷地内の環境がとても良く整備されていて、かの地では有名な観光スポットである。多くの入場者が期待できるので、貸しギャラリーの予約は競争の激しい抽選となる。今回の展示会も、もう少し早い時期に予約を取りたかったが、抽選に外れたので、二番候補のこの時期になった。

 12月は、展示会で物を販売するには、少々不利だと思われる。寒いので外出を控える、師走で気忙しい、年末に向けて出費を抑える、等々の不利な条件が思い浮かぶ。今回もそれらが当てはまったように感じた。それに加えて、世の中の動きもある。この地域でよく展示会を行っている人の話では、近年全般的に売り上げは下がり気味だと言う。それは特定の地域や業種に限らない傾向だという意見も、しばしば耳にする。現在は物作りをしている人々にとって、氷河期だと言えるかもしれない。今回の展示会も、ビジネス的にはあまり芳しい結果ではなかった。

 職業としてやっているので、売り上げは一番大事なことである。しかし、言い訳がましいように取られるかも知れないが、展示会の意義はそれだけではない。今回も、他の出展者との情報交換や、来場者の反応や意見、感想に触れるなど、たいへん有益な部分があった。物を作る仕事においては、創作に関するインスピレーションやアイデアの発掘が不可欠である。また、物を売る面では、買い手の動向を知り、それに合わせた売り方の工夫が大切である。それらはいずれも、工房で一人ポツネンと仕事をしていて得られるものではない。多くの人の目に作品を曝すことによって、意識は活性化するのである。

 さはさりながら、一週間という会期は長かった。展示会は精神的、肉体的負担が大きい。今回は、往復180キロの道のりを毎日通うというハンディもあった。ようやく最終日を迎えたとき、ホッとした安堵感を覚えたのは、正直な気持ちであった。 




ーーー12/17--- クラフトフェアで暮らす


 
開業したての頃、世の中にクラフトフェアなるものがあることを知った。海外ではさかんに行われていると聞いた。英国の例では、椅子作りをしている職人が、一回のクラフトフェアで一年分の注文を得るなどという話も聞いた。国内では、草分け的存在の「クラフトフェア松本」が、スタートして間もない頃であった。そのクラフトフェア松本に関わるようになり、事務局も担当したが、出展者が年間の仕事を確保するなどという話は聞いたことが無かった。その松本のイベントから手を引いて、既に20年以上経った。

 先日合同で展示会をした竹工芸のSさんは、全国各地のクラフトフェアに出展して、作品を販売する一方、注文も取ると言う。そのサイクルで一年間を過ごすと言うから、クラフトフェアで生計を立てていることになる。一回のイベントで一年分をというわけでは無いが、前述の英国の例に近い話だと思った。私が関わった時代と比べると、隔世の感がある。

 ショップに置いたりはしないと言う。ショップで売れば、相当なマージンを取られるからだ。手作業で作っている品物は、手間代が掛かるから、どうしても高額になる。それに販売マージンを乗せれば、価格が高過ぎて買い手が付かなくなる。逆に売れそうな価格にすれば、マージンを引かれて赤字となる。そんなマージンを取られるくらいなら、交通費などの経費は掛かるが、自分でクラフトフェアへ持って行って売る方が良いと。自分で売るということは、お客と顔を合わせて、きちんと説明をして買って貰うということ。それも大事な事だと思うとSさんは言った。

 家族三人で各地のクラフトフェアを回るという。大型のバンに品物を積み込み、生活用具や食料も載せて出掛ける。行った先では車中泊やテント泊で旅費を浮かす。イベントによっては、公民館などを宿泊に使わせてくれることもあるらしい。家族旅行をする余裕など無いが、クラフトフェアへ出掛けて行くことがその代わりになっていて、なかなか楽しいとSさんは微笑んだ。

 旅の一座のようで、なんだか面白そうである。大竹さんもやればいいのに、とも言われた。しかし、家具は大きいので、運搬に難がある。屋外での展示も、雨などの自然条件がネックになる。国内のクラフトフェアの位置付けとして、家具というジャンルが相応しいかという問題もある。マイナスの理由ばかり考えても仕方ないが、現状ではちょっと難しいと思う。しかし、頭の隅には置いておこう。




ーーー12/24−−− キャロリング


 
教会のキャロリングに参加した。一昨年に初めて参加して以来、三年連続、三回目である。キャロリングとは、クリスマスの時期に、教会の聖歌隊が、老人ホームや病院、個人宅などを訪問して賛美歌を歌う行事である。

 私は一昨年の秋に、聖歌隊に入らないかと誘われた。歌に自信は無いが、音楽は好きなので、私で良ければと承諾した。聖歌隊の役目は、年に3回ほど、礼拝の中で合唱を披露することと、年末のキャロリングである。

 聖歌隊に入ったのが9月だったので、直後からキャロリングの練習が始まった。クリスマスにちなんだ賛美歌を、四部合唱で歌うのである。私はバスを受け持つことになった。私以外のメンバーは、毎年やっている事だから平然としているが、新入りの私は大変だった。十数曲あるレパートリーは、曲としては聞いたことがあるものの、バス・パートなど歌ったことが無い。つまり初めて接する十数曲ぶんの旋律を、2ヶ月ちょっとでマスターしなければならないのである。

 自宅練習でパートを覚えるしかないのだが、どのように練習を進めたら良いか。ネットで調べてみたら、ほとんどの賛美歌は動画で視聴できることが分かった。さらに、パート別に聴けるサイトもあった。これには助けられた。しかしそこに載ってない曲もある。そういうものは、教会のオルガン奏者にお願いをして、私のパートを弾いてもらい、それを録音して持ち帰り、繰り返し聴きながら練習をした。

 そんなことでなんとか本番までに全ての曲を歌えるようになった。キャロリングへ向かう車の中で、不安と緊張が頭をよぎったが、その一方で楽しい事が待ち構えているような期待もあった。最初に訪問したのは、障害者施設であった。歌いながら、目の前に並ぶ障害者たちを見ると、心が乱れて声が出なくなった。不幸な境遇の人たちを前にして、悲しさがこみ上げ、歌なんか歌っていて良いのだろうかという気持ちになった。なんとか歌い終えたが、辛い出来事であった。

 今年は、三回目なので、そのような迷いも無く、心穏やかに歌うことができた。しかしまた、あらたな出来事があった。

 最初の老人ホームを終えたとき、牧師様が一同に、もっと愛想良く、手を振ったりしなさいと言った。そういうふうに「作る」のは苦手な私である。しかし、言われた事には素直に従うということが、教会に通うようになってから少しずつできるようになった。次に訪問した病院では、廊下を行進しながら歌ったのだが、病室から顔を出す患者さんに手を振って笑顔を振りまいた。そうしたら、相手が笑顔で返してくれて、嬉しくなった。キャロリングをやって良かったと、しみじみ感じた。

 聖歌隊は歌を歌っていれば良いのだと思っていた。それ以外のサービスは、好きな人がやれば良いと。しかし、そうではなかったようである。本人が大切と思っている事が、周囲にはそれほど意味がなく、逆に本筋ではないとみなしていた事が、実は思いがけないプラスの展開を見ることがある。今回もそれであった。




ーーー12/31−−− この一年


 
今日は大晦日。この一年を振り返って、雑感を書こうと思う。一年の最後の日に、締めくくりの記事をアップできるのは、まことに具合が良い。こういうことが、つまり火曜日が12月31日に重なったことが、2003年の5月に書き始めてから何回あったか調べてみたら、2013年の一回だけだった。

 今年の三大ニュースを順にたどれば、まず伝統工芸展に出品したことが挙げられる。結果はともかく、工芸の頂点と言われる展示会に出品し、講評会にも作品を持ち込み、人間国宝の先生方から批評を頂き、あわせて他の作家の作品にも触れることができて、とても勉強になり、有意義な経験となった。

 次に、餓鬼岳の日帰り登山。疲労困憊で、完全に打ちのめされ、失意の登山となった。大学山岳部時代の過酷な経験を除けば、こんなに辛い思いをした登山は無い。ここ数年気になっていた、暑さに対する体力の衰えが、剥き出しになった形であった。もう自分には登山は無理なのではないかと、暗い気持ちにさせられた。

 三番目は、災害ボランティアに参加したこと。自然の猛威の爪跡を目の当たりにして、あらためて自然の脅威を感じた。被災した方々の心中を思って心が痛み、また災害を蒙らなかったわが身の幸運に感謝をした。たくさんのボランティアが現場で黙々と作業をするのを見て、世の中まだまだ捨てたものではないと感じ、自らがそこに加わっていることを、いささか嬉しくも感じた。

 しいて挙げればこの三件だが、もちろんその他にも様々な出来事があった。楽しいことも、苦しいこともあったが、それぞれ前向きに取り組んで、大方は自分なりに悔いを残さないようにできたと思う。点数を付けるなら、80点くらいの一年であったか。

 今年も残すところあと数時間。ともかく過ぎたことはくよくよ考えず、未来に向かって希望を持って歩みたい。

 今年も週間マルタケ雑記をご愛読頂き、有難うございました。 

 皆様に良い新年が訪れますよう、お祈り申しあげます。